「集中できない」「物覚えが悪くなった」「頭が働かない」「仕事のミスが増えた」——。
うつ病というと「気分が落ち込む」「やる気が出ない」といった症状が知られていますが、実は頭の働き(認知機能)の低下も、うつ病の中核的な症状のひとつです。今回は、うつ病と認知機能の関係について、なぜ早めに休むことが大切なのかも含めて、エビデンスに基づいてお伝えします。
うつ病のときに低下しやすい認知機能は、主に次の領域です。
うつ病の急性期(症状が強い時期)にこれらの機能が低下することは、数多くのメタ分析で確立された事実です(Rock et al., Psychological Medicine, 2014ほか)。「気合いが足りない」「怠けている」のではなく、脳の機能が実際に低下している状態です。
そして重要なのは、こうした認知機能の低下が再発を繰り返した人だけでなく、初めてうつ病になった人(初回エピソード)でも見られることです。初回うつ病を対象としたメタ分析でも、処理速度・注意・学習記憶・実行機能の低下が示されています。「まだ軽いから」「初めてだから大丈夫」とは言えず、早めに相談する意味がここにあります。
ここが特に重要な点です。「うつ症状が改善すれば、頭の働きも元通りになる」と思われがちですが、必ずしもそうではありません。
大規模なメタ分析(Semkovska et al., Lancet Psychiatry, 2019)では、選択的注意・ワーキングメモリ・長期記憶の低下が、うつ病が寛解した後(症状が治まった後)も残存し、エピソードを繰り返すごとに悪化することが示されました。
さらに、気分が回復しても生活機能が完全には戻らないこともあります。ある前向き研究では、症状としては寛解していても約5人に1人が社会的な機能の障害を残しており、急性期の記憶や実行機能の低さが、その後の機能回復のしにくさと関連していました。「気分の回復」と「生活・仕事の機能の回復」は必ずしも同じではない、という点は知っておいていただきたいところです。
もう一つ知っておいていただきたいのが、この点です。
うつ病のエピソード(発症)を繰り返すほど、認知機能が回復しにくくなる可能性が示されています。11,882人の寛解患者を含む252研究を統合した大規模メタ分析では、寛解後にも実行機能・記憶・注意などの低下が残り、過去のエピソードの数が多いほど処理速度が遅いという関連が確認されました。また、69研究を統合した2025年のメタ分析でも、過去のエピソード数が多いほど認知機能の改善が乏しくなる傾向が示されています。
こうした現象は「scar(傷あと)仮説」と呼ばれることがあります。ただし、うつ病の認知機能低下は、この「再発によって残る変化(scar)」だけで説明されるものではありません。症状が強い時期に一時的に悪くなる部分(state)、もともと持っている脆弱性(trait)、そして再発に伴って残る部分(scar)が重なっていると考えられており、すべてが不可逆的に進行するとまでは言えません。
ここまでのエビデンスをまとめると、「早めに休むことが大切」というより正確には、「早めに評価を受け、必要な休養・治療・環境調整につなげることが大切」と言えます。
その理由は主に3つです。第一に、うつ病は長く未治療のまま続くほど、回復や治療反応、その後の経過が悪くなることが系統的レビューで示されています。「長引かせないこと」自体に意味があります。
第二に、うつ状態を無理に続けると認知機能の低下がパフォーマンスの低下を招き、「ミスが増える→自信をなくす→さらに落ち込む」という悪循環に陥りやすくなります。
第三に、認知機能が低下した状態での重要な判断(退職・離婚など人生に関わる決断)は、後悔につながりやすいという問題があります。頭が正常に働かない状態では、大きな決断は先送りにするのが賢明です。
ここは正直にお伝えする必要があります。適切な治療によって認知機能の改善が期待できる一方で、気分症状の改善に比べると、認知機能の回復はゆっくりで、不完全なことが少なくありません。69研究を統合した2025年のメタ分析では、治療後の認知機能の改善は95%以上の指標で「非有意・ごくわずか・小さい」程度にとどまりました。「薬で気分は少し戻ったのに、なぜ仕事がきついのか」という背景には、こうした回復の時間差があります。焦らず取り組むことが大切です。
その上で、認知機能の回復を支える方法をいくつか紹介します。
① 休養と環境調整
まず基本となるのは、十分な休養です。ストレス源から距離を置き、睡眠・生活リズムを整えることで、脳が回復する土台をつくります。急性期にはこれが最優先です。
② 薬物療法(認知機能に着目した選択)
多くの抗うつ薬は、気分症状の改善を通じて認知機能の改善に寄与します。その中で、ボルチオキセチン(トリンテリックス)は、認知機能に関する直接的なランダム化比較試験のエビデンスが比較的豊富な薬剤の一つで、気分の改善とは独立して処理速度や記憶などの認知機能を改善したという報告があります(McIntyreほか)。認知機能の低下が目立つケースでは、選択肢の一つになりえます。
ただし、抗うつ薬の選択は認知症状だけで決めるものではなく、不眠・不安・消化器症状・これまでの治療反応・副作用・併用薬なども含めて総合的に検討します。なお、日本での効能・効果は「うつ病・うつ状態」であり、「認知機能低下の改善」が独立した適応として認められているわけではありません。
③ 運動・認知リハビリテーション
有酸素運動は、うつ症状の改善に加えて、認知機能にもプラスに働くことが複数のメタ分析で報告されています。2024〜2025年のメタ分析では、有酸素運動がうつ病成人の記憶・実行機能・処理速度・注意を改善することが示されており、運動は補助的とはいえエビデンスが蓄積されている方法です。また、認知機能に的を絞った認知リハビリテーション(認知トレーニング)は、実行機能・言語学習・ワーキングメモリの改善が報告されている一方、注意や抑うつ症状そのものへの効果は明確でないとされています(BMC Psychiatry, 2023)。万能ではありませんが、認知面を狙った上乗せ策として位置づけられます。いずれもまずは休養と適切な治療が基本です。
「自覚しているつらさ」と「検査で出る低下」は一致しないことがあります。 うつ病では、本人が感じる認知のつらさと、検査で測定される認知機能の成績が必ずしも一致しないことが知られています。「自覚が強いから気のせい」とも、「検査がそれほど悪くないから問題ない」とも言えません。自覚と客観的な評価、どちらも大切にする姿勢が必要です。
高齢の方では、認知症などとの区別が必要です。 特に高齢の方で、急速に進む物忘れ・見当識の低下・神経学的な症状がある場合は、うつ病だけでなく、認知症やせん妄、身体疾患が背景にある可能性も考えて評価する必要があります。うつ病による認知機能低下は認知症と紛らわしいことがあるため、専門的な鑑別が重要です。
うつ病の治療のゴールは、かつては「気分が良くなること(症状の寛解)」でした。しかし近年は、認知機能を含めた本来の生活・仕事に戻れること(機能回復)こそが真のゴールだと考えられるようになっています。
「気分は良くなったから」と焦って復職し、認知機能が戻りきらないうちに無理をすると、うまくいかずに再発してしまうことがあります。復職のタイミングは、気分だけでなく「頭の働きが戻ってきたか」も含めて慎重に判断することが大切です。
「集中できない」「物覚えが悪くなった」と感じている方、「休んだ方がいいのか迷っている」という方は、一人で抱え込まずにご相談ください。早めの相談が、確実な回復への近道です。
当院(上尾の森診療所 上尾駅前分院)では、うつ病の診断・治療、休職・復職に関するご相談をお受けしています。認知機能の状態も含めて、お一人おひとりに合った治療とタイミングを一緒に考えます。
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